独立 国家 つくりましょうよ
2010/03/31 01:38:03
何故か東京にいるときは自分は日本の中心に住んでいると思っていた。
実際には意識せずそういう考えが頭の何処かにあったという程度だが。
その中心というものの定義が何かといわれれば答えづらい。
それは漠然と『中心』というイメージを持っていた証拠にほかならない。
政治関連の中枢は東京にあると言ってまず間違いないだろう。
だが経済の中心は必ずしも東京にあるという訳ではない。
分野ごとに日本の中心は変わると言えると思うし中心が存在しない分野もある。
東京からバスにゆられて7、8時間、別の土地に着いて思うものは
「ここは日本なのか?」
「なぜ日本なのか?」
おそらく日本からバスで行けるところは日本国内だろう。
地続きになっていない北海道、沖縄に行ってももちろん日本である。
思うのは「よく日本やってるな」ということ。
独立するという選択肢はないのか?
東京と袂を分ってもやっていける都市はいくつかある気もする。
そこでは東京が日本の中心だと思っていないかのように人は生活している。
その他の地域でも東京を意識していない地域は多いのだろう。
案外東京を日本の中心などと考えているのは東京に住む人と日本をよく知らない外国人くらいなのかも知れない。
でもいずれも日本であることは意識しない地域はないだろう。
なぜ日本は日本であろうとするのか。
実際、とある都道府県が「うちの県日本から独立します。」
とか言ってもそれでうまく行く都道府県はまずないと思う。
しかしそれは独立したいが経済的に厳しいからと云う理由ではなく。
独立する必要はないと思うからと云う理由だろう。
たしかに自分も日本人であることに一種の誇りを持っているし、
独立国家ができることでそれに伴う不自由が強いられるのは望まない。
だが日本という国家の概念に囚われ過ぎるのもおもしくない。
そもそもなんのための国家なのか。
その地域でクラス人々を守るためのものなのか?
それとも外国と区別するためのものなのか?
または人々をまとめ上げるためのものなのか?
人々の生き方が多様化する今の時代国家という物の意義がやや時代遅れになっていないか?
もちろん今もなお国家は有力であるとは思う。
だがこの一つの国家の中で住みづらいと考えている人は多いと思う。
今まではまだ良かった。
国民がひとつにまとまる目的があった。
明治以前はよく分からないが明治以降は外国と対等に渡り合うため。
戦争についても結果はどうあれつまりは外国と対等以上に渡り合うことが目的だったのではないかと思う。
戦後は国家の復興のために国民が一致団結した。
以上については国家は大きな意義があると感じる。
だが今、外国と対等に渡り合える今、そしてその限界が見えてしまった今、その意義は希薄だ。
一方で国内の少子高齢化などの問題に悩まされている。
そして国民は国の問題を政治家に押し付ける。
日本の政治家はお世辞にも優秀だとは言えないだろう。
皆それがわかっていながら批判するから滑稽だ。
自分たちの問題を解決するのは自分たちでしかないのだ。
本来国民の『意見』を政治家を媒介させ一つの方向性に反映させていくものではないのか?
決して国民の『要望』を政治家が叶えるなどと考えてはいけないと思う。
まあそう考えた方が国民にとっては楽だし、責任を丸投げできるので気楽だろう。
だがそこを勘違いしている以上日本がこれ以上いい国になるとは考えづらい。
ではこの勘違いはなぜ起こっているのかと考えていくと
日本が個人にとって余りにも巨大であり、個人が国家を回す歯車に成っているためではないかと感じる。
そこでは自分の代わりはいくらでもおり、自分の考えはすぐかき消されてしまう。
それが数字として現れる選挙などには同じく興味がわかない。
こんなことで希望が持てるのだろうか?
この機動性の失った国家にそんなに未練があるのか?
だったらいくつかの独立国家を形成し、より個人個人が国の戦力になるよう仕組みを一新した方が
よほど希望を持てるのではないかと思う。
その過程で今の日本の方がいいことも見えてくるであろうし独立してよかったことも必ずあるはずである。
そしていいことは古いことでも新しいことでも採用していく。
そうすることでより良い暮らしへと常に前進していくのではないのだろうか。
独立国家の最大のメリットはフットワークが軽くなることだ。
小回りが効き、時間を掛けずに新しい取り組みができる。
保守に入ったものは国でも個人でも衰退していくのみだ。
同じ日本人による独立国家が切磋琢磨しあうことで結果的に元日本全体としてみると
上向きになっていればこれに越したことはない。
独立の一番悪い例は朝鮮半島の例だろうが、何も国交を無くす必要はなく、
独立国家感の横のつながりもとても大事であり、
そういう意味で日本というひとつの概念でつながれば感覚的に今の日本と殆ど変わらないでいられるのではないか。
新幹線に乗ってずっと窓の外の景色を眺めているとおもしろい。
「日本は今やどこへ行っても同じような街並みがつづいているからつまらない。」と思っていたが
「それほどでもないかもしれない。」と思わせてくれる景色が広がっている。
都市と都市の間の町、村は田舎を絵に描いたような風景を映してくれる。
ふつうに歩いて長時間かけて同じ道を通れば風景の違いを顕著に感じることはないのかも知れないが殊新幹線という高速移動手段にあっては視覚と知覚の関係からかいわゆる『都市』と『田舎』がほぼ明確に分かれる。
そして山や畑や田んぼ、これとここで働く人があるおかげで自分が生きていられるんだと感謝の気持ちが溢れてくる。
しかしここで働く人達が苦しい生活をしいられていることも話に聞く。
これは由々しき事態だ。まず第一にこの人たちを守ってこそその先に光が見えるのではないか。
まず自給自足を第一に考えその上に国家を据えるのは基本だろう。
外国に頼り切ることは国家を不安定にする。
磐石な国家を作るために自給自足は第一に徹底するべきだ。
その支援も惜しむべきではない。
自分たちの生活に直結してくるものに対して支援を反対する人もそうはいないだろう。
むしろわかりやすいのを好むのが人間というものなので、その点でとても明快だ。
もっと明快な国にするためにも小規模な国家になってほしい。
少し過激ともとられるような文かも知れないが
国を豊かにするとはどういう事なのか。
今の日本は本当に豊かだと言えるのか。
優秀な人材が多く、大きな都市も地方ごとにある日本が
今のままでありつづけるのは勿体無いと日々思うので記した。
ゲホゲホ、風邪引いてまでこんなことを書く自分。
何やってんのや・・・。
実際には意識せずそういう考えが頭の何処かにあったという程度だが。
その中心というものの定義が何かといわれれば答えづらい。
それは漠然と『中心』というイメージを持っていた証拠にほかならない。
政治関連の中枢は東京にあると言ってまず間違いないだろう。
だが経済の中心は必ずしも東京にあるという訳ではない。
分野ごとに日本の中心は変わると言えると思うし中心が存在しない分野もある。
東京からバスにゆられて7、8時間、別の土地に着いて思うものは
「ここは日本なのか?」
「なぜ日本なのか?」
おそらく日本からバスで行けるところは日本国内だろう。
地続きになっていない北海道、沖縄に行ってももちろん日本である。
思うのは「よく日本やってるな」ということ。
独立するという選択肢はないのか?
東京と袂を分ってもやっていける都市はいくつかある気もする。
そこでは東京が日本の中心だと思っていないかのように人は生活している。
その他の地域でも東京を意識していない地域は多いのだろう。
案外東京を日本の中心などと考えているのは東京に住む人と日本をよく知らない外国人くらいなのかも知れない。
でもいずれも日本であることは意識しない地域はないだろう。
なぜ日本は日本であろうとするのか。
実際、とある都道府県が「うちの県日本から独立します。」
とか言ってもそれでうまく行く都道府県はまずないと思う。
しかしそれは独立したいが経済的に厳しいからと云う理由ではなく。
独立する必要はないと思うからと云う理由だろう。
たしかに自分も日本人であることに一種の誇りを持っているし、
独立国家ができることでそれに伴う不自由が強いられるのは望まない。
だが日本という国家の概念に囚われ過ぎるのもおもしくない。
そもそもなんのための国家なのか。
その地域でクラス人々を守るためのものなのか?
それとも外国と区別するためのものなのか?
または人々をまとめ上げるためのものなのか?
人々の生き方が多様化する今の時代国家という物の意義がやや時代遅れになっていないか?
もちろん今もなお国家は有力であるとは思う。
だがこの一つの国家の中で住みづらいと考えている人は多いと思う。
今まではまだ良かった。
国民がひとつにまとまる目的があった。
明治以前はよく分からないが明治以降は外国と対等に渡り合うため。
戦争についても結果はどうあれつまりは外国と対等以上に渡り合うことが目的だったのではないかと思う。
戦後は国家の復興のために国民が一致団結した。
以上については国家は大きな意義があると感じる。
だが今、外国と対等に渡り合える今、そしてその限界が見えてしまった今、その意義は希薄だ。
一方で国内の少子高齢化などの問題に悩まされている。
そして国民は国の問題を政治家に押し付ける。
日本の政治家はお世辞にも優秀だとは言えないだろう。
皆それがわかっていながら批判するから滑稽だ。
自分たちの問題を解決するのは自分たちでしかないのだ。
本来国民の『意見』を政治家を媒介させ一つの方向性に反映させていくものではないのか?
決して国民の『要望』を政治家が叶えるなどと考えてはいけないと思う。
まあそう考えた方が国民にとっては楽だし、責任を丸投げできるので気楽だろう。
だがそこを勘違いしている以上日本がこれ以上いい国になるとは考えづらい。
ではこの勘違いはなぜ起こっているのかと考えていくと
日本が個人にとって余りにも巨大であり、個人が国家を回す歯車に成っているためではないかと感じる。
そこでは自分の代わりはいくらでもおり、自分の考えはすぐかき消されてしまう。
それが数字として現れる選挙などには同じく興味がわかない。
こんなことで希望が持てるのだろうか?
この機動性の失った国家にそんなに未練があるのか?
だったらいくつかの独立国家を形成し、より個人個人が国の戦力になるよう仕組みを一新した方が
よほど希望を持てるのではないかと思う。
その過程で今の日本の方がいいことも見えてくるであろうし独立してよかったことも必ずあるはずである。
そしていいことは古いことでも新しいことでも採用していく。
そうすることでより良い暮らしへと常に前進していくのではないのだろうか。
独立国家の最大のメリットはフットワークが軽くなることだ。
小回りが効き、時間を掛けずに新しい取り組みができる。
保守に入ったものは国でも個人でも衰退していくのみだ。
同じ日本人による独立国家が切磋琢磨しあうことで結果的に元日本全体としてみると
上向きになっていればこれに越したことはない。
独立の一番悪い例は朝鮮半島の例だろうが、何も国交を無くす必要はなく、
独立国家感の横のつながりもとても大事であり、
そういう意味で日本というひとつの概念でつながれば感覚的に今の日本と殆ど変わらないでいられるのではないか。
新幹線に乗ってずっと窓の外の景色を眺めているとおもしろい。
「日本は今やどこへ行っても同じような街並みがつづいているからつまらない。」と思っていたが
「それほどでもないかもしれない。」と思わせてくれる景色が広がっている。
都市と都市の間の町、村は田舎を絵に描いたような風景を映してくれる。
ふつうに歩いて長時間かけて同じ道を通れば風景の違いを顕著に感じることはないのかも知れないが殊新幹線という高速移動手段にあっては視覚と知覚の関係からかいわゆる『都市』と『田舎』がほぼ明確に分かれる。
そして山や畑や田んぼ、これとここで働く人があるおかげで自分が生きていられるんだと感謝の気持ちが溢れてくる。
しかしここで働く人達が苦しい生活をしいられていることも話に聞く。
これは由々しき事態だ。まず第一にこの人たちを守ってこそその先に光が見えるのではないか。
まず自給自足を第一に考えその上に国家を据えるのは基本だろう。
外国に頼り切ることは国家を不安定にする。
磐石な国家を作るために自給自足は第一に徹底するべきだ。
その支援も惜しむべきではない。
自分たちの生活に直結してくるものに対して支援を反対する人もそうはいないだろう。
むしろわかりやすいのを好むのが人間というものなので、その点でとても明快だ。
もっと明快な国にするためにも小規模な国家になってほしい。
少し過激ともとられるような文かも知れないが
国を豊かにするとはどういう事なのか。
今の日本は本当に豊かだと言えるのか。
優秀な人材が多く、大きな都市も地方ごとにある日本が
今のままでありつづけるのは勿体無いと日々思うので記した。
ゲホゲホ、風邪引いてまでこんなことを書く自分。
何やってんのや・・・。
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